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代表の経歴書

マンション業界をフラフラと渡り歩いてきた男の経歴書

メルすみごこち事務所がマンション管理士・長期修繕アドバイザーの事務所として今日ここにあり、そして代表の私が今日まで生きているルーツについて、思いつくままに記してみました。少しでもご理解頂ければ幸いです。

長文、また駄文、怪文とは存じますが、是非ご一読ください。

少年時代1.将来の夢は『マンションの管理人』だった

嘘のような本当の話。信じて頂けますか?
私が子供の頃から「マンション管理」に目覚めていた、マニア人間であったということを…

小学生低学年の頃、藤子・F・不二雄の「21エモン」という、21世紀の未来の日本を舞台にした漫画に夢中になりました。

未来の日本はすべての建物が超高層(タワーマンション)化されており、マンション群を縫うように空飛ぶ車が走るという、子供にとっては斬新なものでした。

少年時代の私は、未来の都市に夢と憧れを描いていたロマンチストでした。

ところが、小学生も高学年になると思考は現実化していたようです。
先日、小学校を卒業して以来、久しぶりに卒業アルバムを開き、同級生が「将来の夢」を寄せ合ったページに目が止まりました。

自分はこのとき何になりたかったのか?と
未来の自分を探していると、、、なんと

「将来の夢 マンションの管理人」

と書いてあるではありませんか!

周りの同級生は「パイロット」「学校の先生」「花屋さん」と書いてあるのに、私は

「マンションの管理人」

その文字の上には、古めかしいマンションの前に立ち、今の私を冷めた目で見ている「将来の私」がイラストされていました。

元々、実家は賃貸マンションの大家で、父はアパマン経営で生計を立てていました。
そして、事業用ローンの返済をしつつも毎月安定した家賃収入を得ていました。
当時、父は大家以外の定職には就かず、朝ゆっくりと起きて新聞を読みふけり、夜は趣味の切手やコイン収集にいそしむ姿をずっと見てきました。

そんな「楽そうな」父を見て、「僕も大家になりたいな」と感じていたのだと思います。
それが卒業アルバムでは、大家が「管理人」になっていたのでした。

21エモンが描いた近未来のマンション群に憧れを持っていた私はどこへ(笑)

いずれにしても、当時はそのような夢がありました。また今思えば「マンション管理」に携わっていく自分が少年時代から潜在的にあったのかもしれません。

なお、当時の我が家はその賃貸マンションの1階にありましたが、上に住む賃借人の家族の皆さんにはとても可愛がってもらいました。今思えば、マンション暮らしを通じてコミュニティの大切さが染み付いたのだと振り返っています。

学生時代 2.不純な動機で不動産業界を目指す

中学・高校とマンションにかかわることはほとんど記憶にありませんが、この頃から両親は老後に移住するための田舎の土地を探しており、週末の度に父に連れられ、茨城県の田舎へ連れて行かされました。

当時、まだ土地神話が全盛期だった時代背景もあり、茨城の土地探しの車中で父から「土地を安く買っておけば値上がる」といった投機的な話を多く聞かされていました。道中で不動産について話を聞いたり土地を見たりしているうちに、不動産への興味が沸いてきたのは事実です。

そして東京の大学に入り、2年時には宅地建物取引主任者(現:宅地建物取引士)を取得、当時20歳での取得は結構早かったほうでした。

その頃、兄が大手ディベロッパーへ入社して活躍する姿を見て、不動産業界への想いはますます強くなります。

ただしその動機は「楽して儲かるだろう」という不純かつ弱いものでした。

「これからは不動産の時代だ!」と盛り上がり、父の勧めで土地家屋調査士や測量士を取得するべく、参考書を買い込みました。

ところが、ステップアップとして測量士補の参考書に目を通した瞬間、数式の羅列に眩暈を覚え、、、結局専門学校に申し込むも初日で放棄し、最初から挫折しました。

以後10年間、数字アレルギーが続くことになります。

新卒で不動産仲介業へ 3.マンションで飯を食う

大学を卒業した頃は「超氷河期」と言われ、同級生は就職に苦労していましたが、私は不動産業に焦点を合わせた活動をしており、また不動産業は離職率が高いこともあって、常に大量の人材を求めていて、幸いにも数社から内定をもらいました。

その中で、私は不動産流通業を選び、大手ゼネコン系の中堅不動産会社へ入社します。

不動産流通業を簡単に言うと「仲介業」となります。
中古の一戸建てやマンション・土地の「売りたい人と買いたい人」とをつなげる、仲人を有料で行う仕事です。

配属された営業所は東京都大田区の大森駅前にあり、JR京浜東北線を境に東側(海側)周辺は庶民的な住宅と工場が混じる地域、西側(山側)には高級な住宅街を控えていました。

東京23区は不動産価格は高く、流通量も多かったため、当然ながら競合する不動産仲介業者も営業所を出しています。

ところで、仲介業の収益は仲介手数料のみで成り立っており、その額(手数料率)は法律で決まっていて、値引きすることも少なかったため、一件当たりの売買金額が高ければ、それだけ手数料も多く入ってきます。

当然ながら、仲介一件当りの売買金額の高額な物件を仲介したくなります。

ところが、売買金額の高い高級住宅街の一戸建てや土地の仲介シェアは、「流通御三家」である三井リハウス・東急リバブル・住友不動産販売の3社による寡占状態であり、私がいた会社にはほとんど問い合わせがありませんでした。

そのため、営業所の方針は「中古マンションに特化した営業」となり、私もマンション仲介に走ります。

当時から頑固であまのじゃくであった私は、不動産業の実務も接客ノウハウもまったく知らないのに、「頑張ればできる」と上司の言うことを聞かず盲信しつづけた結果、同期30人の中で初契約が一番最後、という落ちこぼれ社員でした。

ちなみに、

これが当時、担当エリアである大森~蒲田~六郷方面の分譲マンションの集合ポストへ投函していた「マンションを売却する予定の区分所有者を求む!」のチラシです。

今更ながら冷静に思えば、このチラシでお問い合わせがいただけるはずもありませんが、社会人になりたての当時は「必ずわかってくれるお客様はいる!」と根拠なき盲信でした。

数万枚?いや数十万枚のチラシを自転車の荷台に積み、毎日のように京浜東北線・京浜急行線沿線のマンションへ撒き続け、すべてがゴミになっていたと思うと、はっきり言って環境に悪い男でした。

入社して4年半、結果的にほぼ100%を中古マンションの仲介だけで売り上げてきましたが、これが結果的にマンション管理業界へ深い興味・関心を持つきっかけとなります。

ところで、仲介業に従事していた頃、どうしても不思議な点が2つありました。

一つは、管理費と修繕積立金の内訳と、その中身です。
例えば、

ライオンズマンション○○町第1
ライオンズマンション○○町第2

とが、分譲年や外観、総戸数も同程度で近隣に建っていたとします。

そして、たまたまこの2つのマンションから、同程度の階数、向き、内装の具合、専有面積(部屋の広さ)の部屋が売りに出たとします。

ところが、条件が似通っている2つの物件なのに、マンションごとに管理費と修繕積立金の設定額が大きく異なるものを多く見てきました。

ライオンズマンション○○町第1の部屋は、管理費7,000円、修繕積立金18,000円
ライオンズマンション○○町第2の部屋は、管理費20,000円、修繕積立金5,000円
といった具合です。
そして各々の部屋が所属する管理組合の財政内容を見ると、修繕積立金の残高が

ライオンズマンション○○町第1の管理組合が1億円
ライオンズマンション○○町第2の管理組合が3,000万円
だったりと、大きく異なるのです。

同じような条件で分譲され建っているのに、どうしてこんなにも差が出るのだろう、
と当時は不思議でした。

実は、同じ分譲マンションを扱っているにも関わらず、マンション仲介業はマンション管理のことをほとんど理解していないのです。管理組合の運営力・組織力がマンションの財政に影響することは、当時の私には全く分かりませんでしたし、上司である仲介営業マンの全員が、マンション管理に関する知識をほとんど持ち合わせていません。

今でも元同僚や他社の営業マンと話をしても、当時と管理に対する知識はさほど変わっていないと感じます。
そして中古マンションの購入希望者も、この管理費・修繕積立金というコストに対する関心がとても薄かったのです。

もう一つ不思議だったのは、上記のように管理費や修繕積立金の徴収額、管理組合の財政などに大きな差のある2つのマンション(部屋)でも、不動産としての取引(売買)価格はほとんど変らない、ということでした。

仲介業者が売却希望のマンションを査定する際、立地と築年数、向き、室内の内装などを重要ポイントにあげ、管理組合の運営面や財政面は軽視(と言うより無視)していました。

中古マンションを購入するお客様に、マンション管理についての興味・関心が著しく低いことがその原因ですが、当時の私はマンション管理について素人なりにも「おかしいな」と疑問を持ち始めていました。

そして下記4)の「裏理事長体験」と「マンション管理士という国家資格制度の創設」とが相まって、「不動産としてのマンション」から「住まい・資産としてのマンション管理」へと興味・関心が傾いていき、マンション管理業界への転職を決意することになったのです。

なお、不動産仲介業は売主と買主の相反する希望の間を取り持つことで成り立つ仕事であり、売主・買主双方の心理を学ぶと同時に、間へ入る際の交渉力やバランス感覚・人の気持ちを学ぶことができたのは、不動産仲介業で仕事ができたことの大きな財産です。

親所有のマンションで裏理事長に 4.人のふんどしでマンション管理初体験

上記のマンション仲介業に従事していた社会人の1~2年目のころ、父が大家をし1階に我が家のあった賃貸マンションは老朽化を向かえていました。また、父が祖父の死によって相続税対策を講じる必要に迫られる、という事情も重なりました。

そこで、我が家(賃貸マンション)が建つ土地を、等価交換することになりました。

等価交換とは、所有する土地を売却(老朽化した建物は解体)して、その売却益で買主(ディベロッパー)が建てた分譲マンションの何部屋かを買い戻すという、節税対策を目的とした一連の取引を言います。

この等価交換により、我が家があった賃貸マンションは約20戸のワンルーム~ファミリータイプが混在する分譲マンションに生まれ変わりました。

父はそのうち数戸を所有する(等価交換で買い戻す)と同時に、そのマンション管理組合の第1期理事長に就任することとなります。

ところが、分譲主(ディベロッパー)から用意され管理業務をお願いした、いわゆる財閥系大手管理会社の対応の遅さやフロント担当者の態度の悪さが原因で、父を筆頭に他の理事を含め、管理組合全体が管理会社に対し、大きな不満を持つようになります。

最後には管理会社の対応に不満を持つ理事と一緒に、この管理会社の本社へ乗り込み、上司を出せ!と不満をぶちまけました。

結局、この管理会社との管理委託契約は、新築後1年目で早々に解約し、自主管理(特定の管理会社へ業務を依頼せず、自分たち区分所有者だけでマンションを管理・運営していく体制のこと)の道へ進むことになります。

この自主管理への移行時期を通じ、私は管理会社の問題点(サービスマインドやスピード感の欠如、不透明な管理委託費、各種メンテナンスにおける下請け・孫請け企業への丸投げ構造による中間マージンの発生・コスト高etc)を消費者の目線で見ることができました。

またこの時、このマンションが約20戸と小規模であるために修繕積立金がなかなか貯まらない現状を考え、理事長であった父から任せてもらい管理費の徹底したコスト削減に取り組みました。

この時23歳。父のふんどしを借りた、まさに裏理事長です。

エレベーター保守会社などの情報をタウンページ(当時はネット検索などありません!)で調べ、地元の独立系保守会社へそれまでの3分の1の金額で発注したり、毎年実施予定の設備点検作業を隔年にしたり、清掃員を直接採用したりと、今思えばマンション管理の実務を知らないが故にできた、相当思い切った行動(暴挙?)に出た形です。

結果的に、財閥系の大手管理会社を解約したことも相まって、結果的に大幅な管理費削減ができました。
このことはマンション管理業界に関する疑問の拡大と共に、同様の問題で困っているマンション管理組合の支援がビジネスになるのではないか、、、と目覚め始めた時期でした。

また、この件をきっかけに「小規模マンションを財政問題(修繕積立金の将来不足)から救う方法」として、自主管理を勉強しました。

一方で、いざ自主管理を進めてみると、素人住民だけでの管理組合運営の難しさ(理事会の継続性や管理費等お金に関する透明性・公平性の確保、専門知識や他のマンションの取り組みに関する情報が入ってこないゆえのガラパゴス化)など、管理費削減達成の裏側で様々な問題が内在することも見えてきます。

このときの学びが、現在では自主管理を希望するマンション管理組合に対し、「一部業務の第三者への委託を前提条件とする自主管理」を推奨するバックボーンとなっています。

大手分譲デベロッパー系管理会社へ転職 5.修行中に声を荒らげ大喧嘩

マンション管理に対する疑問や興味が段々と沸いてきたころ、国が「マンション管理士制度」を創設することになり、今思えばドラマのような偶然の連続で「マンション管理組合のアドバイザーができるかもしれない!」と気持ちが沸点に達した27歳の冬、私は第1回目のマンション管理士と管理業務主任者の国家試験を受け、合格するかわからない内に不動産仲介業からマンション管理業へ転職しました。

当時、マンション管理会社への転職を賛成・後押ししてくれる人は一人もいませんでした。
仲介業の同僚や先輩が持つ、マンション管理業のイメージは、

「定時で留守番電話に切り替わる、やる気のない人たちが集まる業界」
「スピード感がない・対応が遅い」
「給料が安い」
「不動産業界の中でも使えない人間が行くお荷物業界」

といったものばかりでした。

マンション仲介業とマンション管理業との実務上の「接点」は、仲介営業マンが売買契約前に買主へ報告する「重要事項説明書」の一部(管理面)について、管理会社へ内容を確認する時に発生します。

基本的に仲介営業マンは常に売上ノルマを抱え、スピード勝負です。「鉄は熱いうちに打て」といわんばかりに、週末にお客様をマンションへ案内して購入申込書にサインしてもらったら、次の週の火・水曜日には契約してもらう位のスピード感が必要だったりします。
売主・買主が仕事をしている平日昼間は外出してチラシを撒くかサボり、夕方から夜中にかけてアクティブに動く行動パターンです。

その一方で、管理会社の社員には基本的にノルマがなく、売上は小さいものの緩い右肩上がりで、リストラのリスクも少なく、マイペースです。
問い合わせと言えば居住者からのクレームや担当するマンションに派遣する管理人からの業務連絡が大半のため、早ければ午後5時半には留守番テープを回しても業務に支障がないのです。
(実際は5時半以降の電話は24時間コールセンターへ転送されています。)

このように、仲介業とマンション管理業とでは、体質や活動パターンが大きく異なります。
そのため、お互いの実務上の「接点」においてストレスが発生するのです。

仲介業時代には、先輩営業マンが管理会社の事務スタッフへ電話越しに、
『こっちの契約に間に合わせるために報告書(重要事項調査報告書)早く送ってくれ!』
と怒鳴りつけるように依頼する場面を多く見ましたし、逆の立場にたったマンション管理業時代には、事務スタッフが仲介営業マンから電話越しに怒鳴られ、恐怖に怯えている場面にも多く遭遇しました。

このように、仲介業から見ればマンション管理業には「ネガティブな印象」しかないので、周囲からは「何故そのような業界へ転職するのか」と不思議がられ、物好きと思われ、また止められたものでした。

確かにマンション管理業界の体質は大なり小なり、外からのイメージと重なる点があります。

私が転職した管理会社は、業界でも大手で、親会社にディベロッパーを持ち、その親会社が新築マンションを次々と建て、建てたマンションの管理業務が自動的に受注できる状態でした。経営的には不景気でも右肩上がりで、一般的にマンション管理会社は経営が安定する分だけ保守的な体質になりがちです。

管理会社で長く働ける人のタイプとしては、リスクを犯してでも攻めるよりは、堅実に我慢強く守っていくほうが長続きする業界です。

さて、念願かなってマンション管理会社に転職した私には、驚いたことが3つありました。

一つ目は「社内でのルーチンワークと細かい数字の処理の多さ」です。

マンション管理組合は日々動いており、管理会社は管理するマンションの建物が解体されるか管理委託契約が終了(解約)するまで、同じような業務が半永久的に続きます。

大きなプロジェクトや一定期間中におけるノルマのようなものはなく、日々着実に業務を遂行する「堅実性」や「確実性」そして「忍耐」のようなものが求められる業界です。

マンション住民から徴収した大切な管理費等を取り扱うために1円単位でも慎重に処理する日々は、100万円単位の仲介手数料が一日で動き、かつ仲介手数料だけが取り扱い金銭というシンプルな構造であった不動産仲介業では考え付かないものでした。

次に驚いたのは、管理会社やマンションの現場は管理員や清掃員、協力会社の地道な努力によって支えられている、ということです。

現場スタッフと共に汗を流すことで得るものが多く、本当に勉強になりました。

特に管理員は館内清掃で体に汗をかきながら、居住者との接客面で心に汗をかき、理事会の支援で頭に汗をかく、バランス感覚が必要です。
様々なタイプの居住者に対し等しく快適さを感じてもらえるような接客を実践しなければならず、非常にデリケートな仕事であることを実感しました。

給料と心労の負担との費用対効果で考えたら、真剣に向き合えば向き合うほど「割に合わない仕事」です。
コミュニケーション力とバランス感覚、洞察力、体力、そしてマンションへ常駐することで起こる「馴れ合い・なあなあ」を防ぎ、常に初心を保つ心構えがないと、長期間安定して務まらない仕事です。

幸いにも私が転職した管理会社は当時、管理員の採用から教育・研修に至るまで非常に高い品質を保っており、他の管理会社が学びに来る程でしたので、担当していたマンション管理組合や居住者からはほとんど苦情がありませんでした。

また、管理員は50~60代と、当時は私の親くらいの方が多く、対外的・業務上においては私が上司であっても、実際には多くの薫陶を受けることができました。

この管理会社を退職した今でも、多くの管理員とお付き合いさせて頂いています。

マンション管理を語る上で、現場スタッフの存在は極めて重要なファクターであることを認識しました。

マンション管理業界へ転職してさらに驚いたのは、マンション管理組合や管理組合の執行部である理事会が「他にはない変わった団体・組織」である、ということです。

不動産仲介営業マン時代には、お客様として一度に接客するのは売主か買主だけですから、一組でせいぜい夫婦2人であり、しかも当然ながら夫婦でマンションの売却・購入に対するベクトルが同じ方向を向いているため、ニーズやウォンツを絞りやすく、今思えば比較的対応しやすかったものです。

ところがマンション管理会社の担当者の場合、お客様として一度に接するのは理事会役員ですが、そのマンションに住む(所有する)目的や性格の異なる他人同士で構成されたメンバーが、少なくても4~5名、多ければ10~20名以上で構成されます。

そのため、理事会などの会合の場では、常に参加する理事会役員メンバー全体の調和やバランスを考えた言動を意識しないと、会合がうまく機能しなくなります。
理事会役員同士の軋轢が生まれたり担当者や管理会社に対するクレームへと発展する可能性が常にあります。

マンション所有者が集まると強制的に組成しなければならないマンション管理組合という組織は、同じ理念・目的で組織され、上下関係が明確な「企業等の法人」とは異なり、たまたま同じマンションを購入した、という点だけでつながっていて、メンバー間の上下関係はまったくない、フラットな関係です。

この「マンション管理組合」という組織を継続的にサポートするためには、ある種独特のノウハウが必要です。

このノウハウを体で覚え実践できたことは、私がマンション管理業界で生き残るための大きな財産になりました。今では管理組合運営のサポート・コンサルティングに「面白さ」を感じています。

転職したマンション管理会社では、主にフロントマン(マンション担当者)兼複数のフロントマンの上司として従事することで、管理会社の大まかな利益構造や各業務における人員配置、業務内容、考え方を概ねつかむことができました。

一方、業界でも大手で、しかも社内の業務分担が明確かつ細分化されていたために、本社機能の中心に入ることはできず、脳みその部分は不透明なままであり、マンション管理業界を俯瞰的に見るにはまだまだ不足の状態で次の転機を迎えます。

さて、元々修行のつもりでマンション管理会社へ転職した私がマンション管理の面白さに目覚め、現場にのめり込んでいたある日、私が今までの人生で恐らく最初で最後、最も怒りをあらわにした出来事がありました。

それは、当時の上司に対して、私が担当していた管理組合の会計に「ゆとり会計」という概念を提案したい、と相談した時でした。

当時の持論で、管理組合は居住者同士の交流増進や共用部分の美観向上・利便性アップなどの「住み心地や資産価値向上への投資」にのみ積み立てて支出できる別会計を設け、確実に確保された資金から管理組合が積極的に活用できる仕組みを作るべき、と考えていました。

区分所有者が自分のマンションに興味・関心を持てるようになったり愛着が生まれたりするきっかけとして「住み心地や資産価値向上への投資」として使える資金を持っておくことは重要ではないか?と思っていました。

「住み心地や資産価値向上への投資」のための予算を、毎年その時の理事会役員によって採ったり採らなかったりするのではなく、新たな会計を設け資金を計画的に積み立て、代々の理事会が継続性を持って堂々と計画的に活用できる仕組みを提案したかったのです。

実際に担当していたマンションでは、それを望んでいたところがありました。

ところが当時の上司の発した一言。

「そんな提案したら会社として仕事が増えるし、非効率的だから、ダメ」

な、な、な、何だと!こんにゃろ(怒)
これで私は人生で初めて「キレた」のでした。

「あなたはどっち向いて仕事をしているのですか?誰からお金をもらっているのですか!」と怒鳴っていました。

10分以上議論(と言うか喧嘩)となり、結局平行線のまま矛を収めましたが、その日は悔しくて眠れませんでした。

今思えば、もう少しアプローチの仕方を変えれば良かったか、、、と反省しつつも、この件を通じて、マンション管理業界が保守的でサービスマインドの低い業界であることと、自分が考えた想いを貫き達成するのは、管理会社では無理である(※)ことを痛感し、マンション管理士としての独立に向け、次のステップへ進む時がきたと感じたものでした。

※余談:この時から10年強が経った2016年4月に、自分が考えた想いを貫ける管理会社を作ってしまいました。
㈱クローバーコミュニティ »

マンション管理費削減会社へ転職 6.コンサルタントという響きに酔い、実務不足で醒める

私は、かつての不動産仲介業時代、そして親が所有する分譲マンションでの裏理事長時代から描いていた「管理組合の立場に立ったコンサルタント」を目指すべく、管理会社から東京のとある管理組合向けのコンサルタント事務所へ転職します。

そこは、マンション管理組合が管理会社へ支払っている「管理委託費」の『削減』を第一に行う企業です。

マンション管理会社の多くは、親会社である分譲会社(ディベロッパー)がマンションを建てると、自動的にそこのマンションの管理業務を受託できます。

そこには、お客様である管理組合(マンション購入者)による管理会社の比較検討プロセスはありません。
マンションと管理会社はセット販売であり、完全な無競争状態で割高な管理委託費が設定されている可能性が高いのです。

また管理サービスの品質も良いのか悪いのかが、マンション購入者には見えません。

この会社では、管理委託費の妥当性に疑問を持ったマンション管理組合から相談を受け、内容を査定します。
査定の結果、管理委託費が割高であると断定できた場合、複数の同業他社から見積もりを取得すると同時に、管理会社による下請け・孫請け企業への再委託により中間マージンが多く発生する業務については、本来の下請け・孫請けにあたる専門会社からも見積を取り、余計なコストをカットしていきます。
競争原理を働かせ価格を下げる、という手法で、管理委託費のコスト削減を支援していました。

この「新築マンション購入者が管理組合を結成した後も当たり前のように支払い続ける管理委託料にメスを入れる」という作業は、今でこそ当社のみならず個人のマンション管理士事務所に至るまで同様のサービスを実施していますが、当時は画期的かつ斬新なサービスであり、マンション管理業界の慣習に一石を投じることとなります。
起業した社長の眼力は今でも尊敬しています。

管理委託費が複数の管理会社や専門会社間の競争見積により、今までの20~30%は当たり前のように削減でき、最大で60%以上削減できたこともありました。

私がかつて父の等価交換マンションでイメージした
「困っているマンション管理組合のコンサルタント」
とはこれだったのだ!と信じ、正直なところ、自分の仕事に酔いしれている時期がありました。

その一方で、管理委託費の競争見積による大幅なコスト削減は「管理会社が提供するサービス品質維持の限界」という課題を私に突きつけてきます。

当然ながら、管理委託費が下がっても提供される管理サービスの品質も一緒に低下しては「安かろう悪かろう」になってしまいます。
当時、「管理委託料とサービス品質とのバランス」を見極める「目」が私に養われていなかったことと、この会社が当時、管理会社変更後の定期的なサポートに志向しなかったことで、結果的に管理サービス品質の低い管理会社へ変更させてしまったり、管理費削減のため変更した新しい管理会社の対応が後から悪くなるなど、失敗も経験します。

この失敗を乗り越えるためには、自分が持つマンション管理に関する業界知識や実務経験をもっともっと高める必要がありました。

また、マンション管理に関する知識・経験が中途半端な状態では、管理委託料の削減以外にマンション管理組合が抱える幅広い悩みに応えることができません。
自分の中で「マンション管理のことは何でも答えられて、俯瞰的な視野でコンサルティングできる人間になりたい」との想いが日増しに強くなってきました。

この想いを果たすため、思い切ってもう一度管理会社へ入り一から鍛え直そう・学び直そうと決意し、転職から3年で東京の小規模独立系管理会社へ再び転職したのでした。

自宅マンションの理事長に 7.理事仲間から『ワイロもらってるんじゃないの?』

実は管理費削減専門の会社に在籍していた頃、自分が26歳の時に購入したマンションの理事長に就任する機会が巡ってきました。

かつて父が等価交換で所有するマンションの裏理事長を務めたことはありましたが、自分がマンションを所有・居住し、自らの責任で理事長を務める経験がしたかったため、不動産仲介業時代に購入したマンションです。
いよいよ、自分が実際に所有し住んでいるマンションの理事長へ就任することができました。

マンション管理業界でのサービス提供者としての経験を積みながら、管理組合(理事会役員・住民)の目線でマンション管理を学ぶことができる、非常に貴重な場でした。

さて、自宅マンションで理事長として1年、そして理事長時代に「理事会役員のオブザーバー制度(理事としての議決権のない支援者制度)を作り、それに自ら就任して1年、合計で2年間、私は「自分のマンションを良くしたい想い」と、「マンション管理組合の運営方法について色々と実践(実験と言っても良いでしょう)し学びとりたい」という両面の考えから、精力的に活動していきました。

まず1年目の理事長時代には、
・ゼロから合意形成を重ね「確実に」管理組合員(居住者)から承認を得る広報
・世代や考え方の異なる理事会役員や居住者とのマンション内での付き合い方
・管理組合イベントやマンション内ボランティアサークル等のコミュニティ活動を組成させるコツ
(マーケティングや企画力、ストーリー性、参加者の役割分担)
・理事会や総会そのものの円滑な運営手法
・理事長としての「引き際」と「引継ぎ」の大切さ
・管理会社の効果的な活用方法

といった、実に多くの学びを得、収穫がありました。
これらは実際にマンション管理組合の真ん中で、理事長として、また一居住者としての視点を持って実践したもので、管理会社やマンション管理士のキャリアだけでは学べないことです。

そして、2年目のオブザーバー時代、私自身として最も大きな「痛みを伴う」収穫があります。

それは、

「マンション管理に詳しく熱心な所有者(特に管理組合内で権限や発言力を有する理事長)ほど、その熱意はエゴになりやすく、その言動は周囲からエゴと映りやすく、周りの理事役員や居住者から誤解され、疑われる」

ということを、自ら「やり過ぎた」失敗を通じて体験したことです。

1年目の理事長時代は、他の理事会役員や居住者といかに協調し合意形成を重ねていくか、に腐心し細心の注意を払っていましたので、周囲から見て理事会活動における私の姿勢は謙虚に映っていたと思いますし、結果としてほぼすべての懸案事項の解決プロセスに私の意見が反映されました。

ところがオブザーバーとして理事会へ関与し続けた2年目は、管理組合での活動を
「私自身のキャリア積み上げのための実験場として活用したい」
と位置づけ、色々と試したい想いが次第に強くなり、想いが「エゴ」となって少しずつ言動に表れていたのだと思います。
残り任期が1年と短かったこともあり、早く話を進めて結論を出したい、という焦りがあったのも事実です。

その結果、マンションの管理・運営に関心の低い他の理事会役員との間に情報格差や情熱格差を生んでしまい、その格差が知らずのうちに情報の不透明さや不信感につながり、最後は居住者や理事会役員の一部にさえ、自分の言動を疑われてしまったのです。

まさに大きな物事を決める臨時総会の数日前に、一住民から理事会宛へ総会議案に対する批判的な手紙が理事会へ届けられ、ビラが全世帯に投函されました。元々この総会の議案はオブザーバーである私が提起し、私が議案まで作っていたため、動揺が広がっていた理事役員の中に、私に対する疑いの目を持つ方が現れたのでした。

総会の前日に他の役員仲間から「深山さんは業者からワイロをもらっているのではないか?と噂ですよ」と指摘されましたし、実際にはその方が周りの居住者へ噂を流していたこともわかりました。
当日の総会でも、私の想いが強く反映された議案はことごとく否決されました。

この時、はっきりとわかったのです。
マンション管理組合の活動に熱心で、他の理事や区分所有者と比べ豊富な知識・経験を持ち、自分の想いを実現したいという自己顕示欲を強く持つ人ほど、陥りやすい罠があるということを。

そして周りの理事や区分所有者に対し迷惑をかけてしまうことを。

スピードを出すのは良いけれど、スピード違反は事故になる、ということを。

私は自らその罠にはまり、しっぺ返しを受けることで、合意形成の大切さやエゴの危険性、マンション管理組合と言う特殊な集団の心理の移り変わりを学ぶことができました。

現在では、当社へお問い合わせいただく「多くのヒートアップした理事長」への始めのアドバイスは
「まずクールダウンしましょう」となっています(笑)。

「熱心で正しい見識と真っ直ぐな想いを持つ理事長」と、「マンション管理への関心が低い理事会役員・区分所有者」との架け橋としての合意形成アドバイスが、実は実務面のコンサルティングと同等かそれ以上に大切だという確信は、この2年間の苦い経験により染み付いたものです。

ちなみに、自宅マンションで理事長とオブザーバーを退いて以降、管理組合の活動へ関与することはなくなり、当社の仕事が忙しくなったこともあって、週末開催の総会や居住者イベントに出ることはありません。
代々の理事会の活動に敬意を持ち、総会の出欠票や居住者アンケートへ回答することで我が家の一票を行使しています。

独立系の小規模管理会社へ再転職 8.社長と経理以外の実務を学び倒す

マンション管理に関する知識・経験を更に一歩深めるため、そして自分を一から鍛え直すために、管理費削減専門会社(上述の 6) 参照)から小規模マンション管理会社へ再転職しました。

ここで私は、マンション管理の実務を深く勉強します。

仕事の仕組みが整い、スタッフの業務が細分化された大規模管理会社( 前述 4)参照 )時代は、仕事の内容が明確で焦点が絞れており比較的楽だった半面、管理実務の勉強という意味においては極めて限定的でした。

一方で、今回の再転職先の小規模管理会社では、ほとんどの実務作業を一人でこなさなければなりませんし、一人何役は当たり前です。

その上、業務の一つひとつがアナログで非効率であったため、大手管理会社の時と比較して同じ仕事をするのに2~3倍以上の時間と忍耐とを必要としました。

さらに、いわゆる独立系(親会社にディベロッパーを持たない)管理会社であったため、新規開拓は他の管理会社が管理するマンション管理組合へリプレイス営業して泥臭く対応する必要がありました。

私はこの小規模管理会社での1年半を通じ、

・社内業務の効率化(スピード化)
・新築マンションの管理立ち上げ
・管理員等の現場スタッフ採用・定期研修
・管理会社変更(リプレース)のための営業
・会社のwebサイト作成
・協力会社開拓その他

といった、大手管理会社であれば本社の独立した部署のスタッフが個別に行うべき業務をこなしました。

その上で更に、個別のマンション担当者として個別に管理組合を受け持ち、

・管理費等滞納者への督促活動
(督促状作成、不良滞納者訪問…風俗店に出入りしたりヤクザに追われたことも!…)
・総会議案書作成(決算資料に至るまですべて!)
・共用部分の保険事故対応
・大規模修繕工事のフォロー

など、大手管理会社なら専門部署が対応してくれる業務を全部自分で対応することとなります。

その結果、管理会社では「社長と経理以外のすべて」を経験しました。
まさに「やり尽くした」という言葉がしっくりくるくらいです。あまりにも濃密な時間でした。

日々の激務と費やした時間、そしてストレスとをすべて受け入れた結果、私はマンション管理について大きな実務知識と経験、仕事を効率化(スピード化)する感覚、さらには自分に対する自信とマンション管理業界に対する謙虚さとを手に入れることができた、と確信しています。

社会人以降のキャリアがいかに表面的で狭い範囲であったかを気付かせてくれましたし、仕事に対する甘さ(業界はこんなもの、という傲慢さ)と向き合うことができた、本当に貴重な時間でした。

この小規模管理会社での経験がなかったら、私はコンサルタントの仮面を被った、口だけマンション管理士でした(笑)。

もちろん完成形のマンション管理士などいませんし、自身まだまだレベルアップしなければなりませんが、私自身の中で大きな土台がようやく完成したのは、この小規模管理会社で奮闘していた時期でした。

コンセプトマンション事業に挑戦 9.鉄道オタク限定マンションを作ろう!

小規模管理会社への勤務時代に、マンション管理の実務をみっちり鍛えながら、実はもう一つ取り組んでいたことがあります。いえ正確に言うと『立ち上げようとしていた』事業がありました。
それが『コンセプトマンション企画』です。

私がマンション管理士として最も頭を悩ませ、答えを模索していたのは「一般的なマンション管理組合では、居住者間のコミュニティーが成熟しにくい」ということです。

マンションの購入目的は人により様々ですが、具体的にマンションを探すときは、大きく「立地・専有部分の状況・価格(ローン支払額)」で考える人がほとんどです。私自身が中古マンションを購入した時もそうでした。
そのため、マンションの区分所有者には購入の動機に共通点が少なく、居住者間のコミュニティがなかなか醸成されませんが、このコミュニティ不足に起因するトラブルや問題がマンション管理の現場で起こる問題の大半である、と私は考えています。

すでに多種多様な人たちが暮らしを営んでいるマンションで、多くの居住者が同じような価値観を共有することは非常に困難です。

そこで浮かんだのが、
『だったら、初めから同じような考え方の人が集まるマンションを作れば良いではないか』
と言う発想です。

これは、私の師匠宅で雑談中、師匠の家族であるブルドッグのメル(これが『メルすみごこち事務所』の名前のルーツです)を抱っこしながらマンションのペット問題(ペット好きな人と動物が嫌いな人がなかなか分かり合えない、と言う話)を議論しているときに

『だったら愛犬家限定マンションか、シンボル犬(共用犬)のいるマンションを作っちゃえば』とひらめいたのが発想の原点です。

その後、当時出会った仲間と意気投合し、3名で80もの「居住者間で共有できる何かがあるマンション」つまりコンセプトマンションの企画を作り、一級建築士に図面を書いてもらい、デベロッパーやファンドなど50社以上に企画を持ち込みました。

コンセプトマンション企画の一例として『鉄道オタク限定マンション』を挙げてみますと、

・入居者は鉄道オタク限定(鉄道に関心のない人は入居できない)
・エントランスのオートロックはICカードで入館
・共用部分に巨大なNゲージやプラレールのレイアウトを用意
・共用部分にプロジェクターとスピーカーを用意し、電車でGO(運転シミュレーター)を用意
・時刻表や「鉄道ファン」等の雑誌をマンション管理費(共益費)で購入し居住者が利用
・Nゲージ交換会や写真撮影会の企画など居住者同志の交流を促進しコミュニティ形成を支援
・管理員も鉄道オタクで駅員風の服を着用
・専有部分(部屋)はNゲージやプラレールが飾れるような棚を用意
・廊下や階段・玄関ドアには、居住者が撮った鉄道写真や廃線になった鉄道のプレート等を飾る

などなど、、、と、まぁなんとも鉄道オタクにはたまらない企画?のマンションです。

特殊なコンセプトを持つマンションを、周辺相場の1.2倍程度の不動産価値で流通させようと真剣に考えていました。

1,000人のうち1,000人に検討されるマンションは、競合も50社100社と多いが、
1,000人のうち20人に熱狂的に支持されるマンションを独占した方が強い。

今の時代は人々のニーズが細分化・ウォンツが深層化し、それに対応できる企業が生き残れる、という読みもありました。

しかも普通のマンションと異なり、同じような環境や趣味・悩み・境遇を持つ居住者が集まるマンションを造り、その運営を支援する、マンション管理士の新しい形が作れるのではないか、とも考えていました。
入居者同士のコミュニティーが自然と出来上がり、居住者同士のコミュケーション不足に起因するトラブルは激減します。その結果、マンション管理に携わる者(マンション管理士や管理会社)も事業が効率的かつ高利益率になる、、、ここまで読んでいました。

ここまでは良かった。

ところが、このコンセプトマンション企画を持ち込む先である不動産業界は、サブプライムローン問題の影響で大不況。
しかも多額のお金を動かす業界だけにコンサバティブ(保守的。新しい企画を受け入れる土壌がない)であり、しかも金なしコネなしのベンチャーだったので全く信用されない状態でした。

不動産業界(特にBtoB)は実績と人間関係が重要だったのです。

このような状況で、コンセプトマンションの話を聞いてくれる企業はほとんどない状態が続き、1年間活動した後、資金が底を尽き、撤退に至りました。

完全な夢物語、企画倒れでした。

当時は非常に悔しい想いをしましたが、今でも「将来リベンジしたい」と希望は失っていません。
いまの世の中で「シェアハウス」が少しずつ社会の認知度を上げていますが、これはコンセプトマンション企画が描いていたものと似ています。

約80のコンセプトマンション企画は今でも大切に温め、時代の風を読みながら必ず捲土重来を果たします。

ちなみに、このコンセプトマンション企画を考える中で『風俗店で働くシングルマザー限定のマンション』といった突拍子のないものを考え、そのためのリサーチとして、横浜は伊勢佐木町に並ぶ風俗店50店舗を一人で回り、店員さんや風俗嬢への聞き込みを敢行しました。
お店が始まる夜に飛び込み、客と間違われて追い払われることもしばしばありました。

物怖じしない図々しさと、飛び込みの根性がついたのは、この頃です。

当社の第一創業期 10.自宅の一室で小さく起業、そして法人化

メルすみごこち事務所の創業は2006年(平成18年)12月です。
横浜市にある自宅の、当時は夫婦の寝室であった6畳間にPCとプリンター・電話・ファクシミリを設置し、このWEBサイト(e-sumigokochi.com)をオープンさせたことで起業し、これを「創業」としました。
しばらくは前述のサラリーマンと掛け持ちしながらの試験運営でしたが、夢と希望だけは人一倍持って立ち上げたのを覚えています。

個人事務所であった当時に初めて顧問契約をいただいた時のことを、今でも鮮明に覚えています。契約の調印・初めて報酬が振り込まれたときのATMでの印字の音。
やはり一件目のお客様のことは忘れられないものです。今でも深い感謝の気持ちを持ちながら支援させて頂いております。

そして2009年(平成21年)1月、オフィスを西新宿に移し、「株式会社メルすみごこち事務所」として法人化しました。

西新宿といえば、超高層ビルや東京都庁・ホテル・タワーマンションがズラッと立ち並ぶ、まさに東京の中心、日本の中心と言っても良いでしょう。
「東京都新宿区西新宿、、、」と印字された名刺を作ったときは感動したものです。

しかし、当時は「ヒト・モノ・カネ」が何もない状態でしたし、顧客もほとんど付いていない状態でしたので、当然都心の一等地へオフィスを借りる資金などありません。

幸いなことに、知人から声をかけていただき、知人が経営する会社オフィスの一部スペースを借りることができ、そこが西新宿だった、というのが実情です。

しかも、その知人が借りていたのはレンタルオフィスでしたので、
「レンタルオフィスの一部の無料レンタル」
でした。

机ひとつ、椅子二つ、電話ひとつ、デスクトップパソコン1台。
本当に有難かったです。知人から誘いを頂かなければ東京に進出することはできず、法人化も先延ばしにしていたことでしょう。今日の当社がある、立ち上げ期の恩人には、感謝してもし足りません。

こうしてようやく、会社としてゼロからのスタートをきることができたのでした。

その後、2010年(平成22年)8月に渋谷区鶯谷町へ、2012年(平成24年)12月に渋谷区桜丘町へ、それぞれ愛着がありつつも手狭になった部屋から脱皮するかのように、少しずつ広いところへ引越し、2015年(平成27年)には川口へ埼玉支店を出して、今日に至っています。

個人事業主としてスタートした2006年12月から2008年12月までを前創業期、法人化した2009年1月から2013年12月までの5年間を『第一創業期』とし、
2014年(平成26年)1月からを『第二創業期』と位置付け、仲間と共に新たなスタートを切った次第です。

『有難い人の情け』と『運』そして『とにかく継続』に助けられ、今日まで業務を積み重ねてまいりました。

そいて今 最後に

ここまで、私の経歴をお話ししました。2006年から今日までは、実に多くの苦労と喜びを繰り返して参りましたが、今でも支援させていただいているお客様の都合もあり、詳細は控えさせて頂きます。
少しでもご理解いただければ幸いです。

当社を立ち上げて以降、お陰さまで少しずつお問い合わせ・お仕事を頂けるようになりました。
一方で私自身の不徳の致すところ多く、一部のお客様にはご迷惑をおかけしました。お詫びの気持ちと共に、糧にしてここまでたどり着いたことに、感謝の気持ちで一杯です。

またテレビ放送(ガイアの夜明け…テレビ東京系列…やNHKニュースシブ5時など)や全国紙(日本経済新聞・読売新聞・朝日新聞等)、業界専門誌などのメディアからマンション管理士の仕事について取材依頼をいただくようになり、当社のマンション管理・運営・修繕に対する考え方や発想・提案などを広くお伝えする機会にも恵まれ、大変有難く思っています。

さて、当社としての今後の展望については、
[代表ご挨拶]のページにて続けてお話しますので、是非ご一読下さい。

なお、もしここまでお読みいただいて私のことをご理解いただけなかった方へ、
(文才なく申し訳ない)、私の経歴と想いとを一言でまとめますと、

「マンション管理組合運営が三度の飯より好き」

ということでご理解いただければ幸いです。

これだけの長文、駄文にお付き合いいただき、本当にありがとうございました。
今後ともよろしくお願い申し上げます。